◆2015年 12月1日号 <No.1169>  
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   特集 「核兵器廃絶平和都市宣言」から30年 戦争の記憶を未来へ  


 昭和16(1941)年12月8日に勃発した太平洋戦争は、昭和20年8月6日広島に、8月9日長崎に原子爆弾が投下され、8月15日に終戦を迎えました。
 大牟田市は戦後40年の節目となる昭和60年12月8日にあらゆる核兵器の廃絶と恒久平和の実現を願い、「核兵器廃絶平和都市」を宣言しています。
 それから30年が経過し、戦争のことを知らない世代が大半となりました。しかし、戦争のことや当時の人の思いを風化させてはいけません。大牟田大空襲を振り返り、平和について考えます。

大牟田大空襲
空襲目標となった大牟田

 戦時中、大牟田は100機以上のB29爆撃機による2回の大空襲をはじめ、何回もの空襲被害を受けました。大牟田に初めてB29が飛来したのは昭和19年7月8日未明でした。この時は写真偵察のみでしたが、空襲警報が発令される中、多くの市民が防空壕で不安な一夜を過ごしました。
 当時米国は、中国の成都に前線基地を設け、そこから北部九州諸都市に空爆を加え始めました。19年6月から八幡、佐世保、長崎、大村が爆撃され、11月21日には大牟田でも、通町から三池、久福木にかけて爆弾・焼夷弾が投下され、多数の犠牲者が出ました。
 同年11月には米軍はマリアナ諸島に新たなB29部隊の基地を築きました。その後はそこから出撃を繰り返し、20年6月までに、東京、名古屋、大阪など七つの大都市を焼夷弾で焼き尽くしました。
 マリアナからの攻撃目標が中小都市まで拡大された際に、炭鉱で発展し、工業が集中し、人口も多かった大牟田は一番に候補となり、20年6月18日未明と7月27日未明の二度の大空襲に見舞われました。住宅の密集する市街地は、一面焼け野原となってしまったのです。
 その後も、8月7日の工場・藤田町空襲、8月8日の八本町・亀甲町・平原町空襲など終戦直前まで大きな被害がもたらされ続けました。
 (空襲の呼び名は「大牟田の空襲を記録する会」の鈴木裕和氏提唱のものを採用しました)


終戦直後の大牟田市の様子の画像
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終戦直後の大牟田市の様子(市庁舎屋上から南東方向を写したもの)
大牟田第二国民学校(現大牟田小学校)の一部が残り、右手前には撤去されていないがれきが見える

空襲前の大牟田第二国民学校周辺の様子の画像
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空襲前の大牟田第二国民学校周辺の様子

 

防空壕で過ごした夜のことを、今でも思い出します
柿園町 大城絹子さん(84)

大城絹子さんの画像 昭和20年7月27日未明、明るくきれいな月夜でした。焼夷弾が落下しだしたので、すぐに母と妹、2人の弟と一緒に、古町の自宅から10分ほどの場所にあった防空壕に避難しました。焼夷弾が雨のように落下し、銀紙(アルミ箔、電波妨害のために米軍が投下)がシャラシャラ音を立てて落ちるのを見ました。
 築町の踏切を通過した後、すぐに貨物列車が焼夷弾で燃え、後続の人たちが踏切を通れなくなりました。
 防空壕は、市が金比羅神社の山を掘って作った大きなものでした。入口のひとつは三井病院につながっていて、担架で運ばれた人もたくさんいました。
 入口前の家が燃え、煙が中に入ってきたので、弟のおしめを濡らして鼻に当てて苦しさを防ぎました。100人以上の避難者や負傷者がいたと思います。暗闇の中、泣き声・叫び声やけが人の呻き声が聞こえ、不安で重苦しい空気でした。
 防空壕を出ると、市街地一帯が焼け野原になり、市役所と松屋が見えるだけで、何も残っておらず、有明海が見えるほどでした。五月橋の欄干には、ぶら下がって熱さをしのいだ跡か、着物の腰ひもや帯がぶらさがっていました。家のあった場所に戻ると自宅は全焼していました。
 平和が当たり前の世の中になりましたが、何にでも「ありがたい」と思う気持ちを持って生きることが大切。そのことを伝えたくて、講師をしている美容学校では、生徒たちに自分の体験談を話しています。

大城さんが逃げ込んだ防空壕跡の画像
大城さんが逃げ込んだ防空壕跡(山上町金比羅神社)。
現在入口は塞がれている

戦争は勝っても負けてもみじめなもの そのことを、次の世代に伝えなければ
柿園町 宮本勇さん(83)

宮本勇さんの画像
真道寺町の高台で。
この場所で6月18日の空襲や原爆のキノコ雲を見たという

 進学のため東京に出て東京大空襲に遭い、帰郷して真道寺町の伯母宅にいた昭和20年のことでした。
 6月18日未明、遠くに爆音を聞き、外に出て見ていると、B29がすぐに上空に現れ、焼夷弾を投下し始めました。大正町方面、大牟田駅前通りと次々に火災が発生し、上官小学校正門すぐ南側で火災が広がった瞬間、足元にズシンと響く音と揺れが感じられました。家の中を見ると床の間の真ん前に二発の油脂焼夷弾が落ちていて、一分もしないうちに家の中は火の海となりました。
 隣家の幸ちゃん(当時10歳くらい)が一人で泣いているのを見つけ、一緒に避難しました。一ノ浦の崖に横穴式に奥深く掘った退避壕に行きました。そこはすでに満員でした。
 少し明るくなり始めたので外に出てみると、まだあちこちで炎と煙が上がっていました。市内中心部は大きな被害を受けて、上官通りの道路には油脂焼夷弾が数百本、道路にめりこんだ形で残っていました。焼け跡からはいまだ煙と異臭が流れていて、人が焼けた臭いは何とも表現できないものでした。
 8月9日は朝から日本晴れでしたので、いつものように焼け跡で何かを探していたと思います。その時偶然西の方を見たら、片平山の上に急にもくもくと白い雲が浮き出し、みるみるうちに上空まで上って行きました。長崎原爆のキノコ雲でした。
 そして8月15日終戦の日。近くの北原さん宅で玉音放送を聞きました。雑音で聞き取りにくく、「たえがたきを、たえ」の部分だけは分かりましたので、皆で「大変だろうが頑張って」と解釈していましたが、すぐに「日本は負けた。無条件降伏」と伝わってきました。皆無言でした。
 戦争というものは、勝っても負けてもみじめなものです。人間は優秀な動物ですが、争いを起こすという点で人間ほどばかな動物もいないと思います。戦争を美化してはいけない。戦争だけはしてはいけない。そのことを、若い人に伝えなければならないと思います。

命の紙芝居
〜戦争の記憶を学び、伝える〜

 市内の小・中・特別支援学校では毎年平和学習を行っています。
 8月の出校日には、平和に関する絵本の読み聞かせや戦争体験者の話を聞くなど、それぞれの学校で戦争について学び、考える取り組みが行われています。
 また、校外でも修学旅行などで平和集会、語り部の話、フィールドワークなどを行っている学校もあります。

 今年8月6日、白光中学校では、紙芝居で命の尊さを伝える「命の紙芝居」の活動をしている松井小百合さんをゲストティーチャーに迎え、戦争の体験談の紙芝居を見て平和について考えました。 
 一本目の紙芝居「と・ん・ぼ」は、白光中学校3年生の3人が読み手となりました。昭和20年8月7日に藤田町に墜落した米軍機の爆発事故で、弟を亡くした男性の証言を題材にした紙芝居です。
朗読した生徒たちは「今までも平和授業などで学んでいましたが、昔の、遠い世界の話のような気がしていたし、大牟田に空襲があったことも知りませんでした。今回朗読するために、両親や祖父母から話を聞いたり、調べてみたりすることで、物語や人の気持ちが自分のことのように入ってきました」「聞いただけで終わらせるのではなく、他の人にも伝えていこうと思います」と語ってくれました。
 二本目の紙芝居「13才の夏」は東京大空襲と大牟田空襲を体験された宮本さん(3ページ参照)の物語で、松井さんが朗読しました。

 松井さんが「命の紙芝居」の活動を始めたのは7年前。父・渡辺松男さんに認知症の症状が出始めたのがきっかけだったそうです。
 1日に何回も特攻隊の話と軍歌を繰り返すようになった松男さんを見て、「父は戦争体験を引きずって生きている」と感じ、聞き取りを開始。松男さんの記憶を辿りながら葦ペンで絵を描き、14枚の紙芝居「特攻隊」を完成させました。絵本にして誕生日に渡すと、松男さんは喜び、それから特攻隊の話はしなくなったといいます。
 2作目は母親の体験談から生まれた「子どもだけの疎開」。その後、さまざまな人からの聞き取りで制作を続け、現在15作目を手掛けているそうです。
 戦争を伝える手段を紙芝居にしたのは、「絵と話、両方で触れてもらうことで、少しでも深く感じてもらう」ため。
 さらに、読み手に回ることで、より理解を深めてもらうため、学校の平和授業などでは子どもに朗読をしてもらっているそうです。 松井さんは「一緒に作り上げるのは大変ですが、練習を重ねるうちに子どもたちがどんどん変わっていくのが分かります」と話していました。

 これからも、戦争の記憶と平和への思いのバトンを、次の世代へ渡していかなければなりません。

白光中学校3年生の3人の画像
紙芝居を朗読した  藤井佑衣さん(左) 若松愛果さん(中) 前田風香さん(右)
命の紙芝居の画像
平和展2015関連事業でも「命の紙芝居」を行いました(三池カルタ・歴史資料館にて)
紙芝居「と・ん・ぼ」の一場面の画像
紙芝居「と・ん・ぼ」の一場面
紙芝居「13才の夏」の一場面の画像
紙芝居「13才の夏」の一場面
松井小百合さんの画像
松井小百合さん

 

―そして、未来へ―
思いを受け継ぐ

 先人たちの強い思いを受け、核兵器廃絶平和都市宣言を行ってから30年になります。
 戦争を語ることのできる人は少なくなり、私たちは平和で豊かな生活を当たり前のように感じて生きています。しかし、世界中では、今 なお悲惨な戦争が繰り返されていて、核兵器の脅威にさらされています。
 これからも日本が戦争のない平和な国であるためには、戦争を知らない世代が戦争の悲惨さを知り、体験や平和への思いを受け継いでいくことが、今を生きる私たちにとって大切なことではないでしょうか。

■問合せ 企画総務部総務課(電話41-2551)

 

核兵器廃絶平和都市宣言

恒久平和は私たち人類共通の願望である。
核戦争の惨禍を二度と繰り返してはならない。
大牟田市は、市民一人一人の平和を願う心を結集して、
あらゆる核兵器の廃絶を訴え、
ここに核兵器廃絶平和都市を宣言する。

昭和60年12月8日 大牟田市



核兵器廃絶平和都市宣言30周年記念事業 「おおむた平和のつどい」
〜伝えよう戦争の悲劇、つなげよう尊い平和〜

渡部陽一さんの画像
戦場で撮影した写真をお見せしながら、戦場で見てきたことや感じたことなどをお伝えします。


■講師プロフィール

1972年9月1日、静岡県富士市生まれ。
学生時代から世界の紛争地域を専門に取材を続ける。戦場の悲劇、そこで暮らす人々の生きた声に耳を傾け、極限の状況に立たされる家族の絆を見据える。イラク戦では米軍従軍取材を経験。

 戦争や核兵器の恐怖をつぎの世代に伝え、悲惨な体験を風化させないよう「おおむた平和のつどい」を開催します。
■と き 28年1月31日(日)午後2時開演(1時開場)
■ところ 文化会館大ホール
■入場料 無料
※大ホールホワイエに、平和ポスター(各部門の最優秀賞および優秀賞作品)と原爆パネルを展示します。
【第一部】 ●平和ポスター優秀者表彰  ●平和宣言文朗読
【第二部】 ●平和講演会
演題 「今伝えたい、戦場からのメッセージ」 〜世界で見てきたこと、そして感じたこと〜
講師  渡部陽一さん(戦場カメラマン)

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