駛馬小学校前の横断歩道を渡ったところに坂道があり、その両側は切り立った急な法面で、切通しと呼ばれています。ここは、小高い山でしたが、昔の人が掘って削って、人や馬が通れるようにしたものです。昔は近くまで海がありました。
(2)潜塚古墳(くぐりづかこふん)
切通しを登った少し先、左手に「潜塚古墳」があります。諏訪川の周りにはいくつか古墳があり、そのうちの一つが潜塚古墳です。大牟田では一番古い古墳で、このあたりを治めていた強い人のお墓です。今からおよそ1600年前に作られ、形は円墳で大きさは30メートル、高さは7メートルあります。中から2つの石棺が見つかり、その一つから大人の男性の骨も見つかりました。副葬品として、鉄でできた剣や斧、鏡、つぼが見つかっています。登ってみると駛馬のまちがぐるりと一望できます。
(3)防空壕跡
潜塚古墳の登り口の手前に防空壕(ごう)跡があります。ここは戦時中に実際に防空壕として使われていたと地域のお年寄りが話されていたそうです。戦争が終わった後、危ないので石で塞がれました。石は墓石も使われています。
(4)駛馬天満宮
ここは、学問の神様で有名な菅原道真(すがわらみちざね)をお祀(まつ)りしている神社です。菅原道真が京都から太宰府に来たとき、京都に残された家族が悲しんでいるのを慰めるために、道真は鏡を見ながら自分の似顔絵を描いて、京都に送りました。道真が亡くなった後、似顔絵を京都に運んだ人の夢に道真が出てこられ、「似顔絵を御木国米生荘(現在の駛馬天満宮付近)にお祀りして神社をつくりなさい」と言われたことから、933年、今から1,000年くらい前に、この駛馬天満宮ができました。鳥居の近くには石で作られた一対の鷽(うそ)があります。太宰府で道真がたくさんの蜂に襲われそうになったとき、鷽という鳥の大群が飛んできて助かったそうです。駛馬天満宮では「うそ替えまつり」という行事を毎年3月と9月に行っています。1年の嘘を天満宮の木鷽と交換することで、ついた嘘を滅ぼすと言われています。境内には今から670年くらい前に藤原助継(ふじわらのすけつぐ)という人が作った「ガランサン」と呼ばれている「宮原天満宮石幢残欠(みやはらてんまんぐうせきとうざんけつ」と「ウキゾウサン」と呼ばれている「宮原石層塔残欠(みやはらせきそうざんけつ)」の2つの石塔もあります。「ガランサン」の表面には建物、動物や人などが刻まれていて、「ウキゾウサン」の表面には和歌が刻まれています。
(5)馬込(まごめ)の地蔵堂
お地蔵さんは今から約200年くらい前、江戸時代の後半に作られました。江戸時代の馬込は寂しい村でしたが、当時は南関でも「馬込のお地蔵さん」といえばわかるくらい有名なお地蔵さんで、目標になっていました。今から約50年前にお地蔵さんの頭部が盗まれました。昔は石仏の首をもいでお願いすると、博打で勝てる・病気が治る・悪いことをしても捕まらないといった言い伝えがあったそうです。盗まれた首は馬込川下流の諏訪橋の下で発見されて、2カ月後に元に戻されました。馬込のお地蔵さんは大きくて、お堂の中は板張りで座れる場所もあります。昔から待ち合わせの場所として使われていて、今はお堂の目立つところに時計もあります。子どもたちは馬込のお地蔵さんが子どもたちの遊び場であり、守ってくれたことを知って、そのことが心に残ったようです。今でも地域を見守ってくれる大切な存在として、大事にされています。
(6)皆覚寺(かいかくじ)
ここでは、昔、寺子屋(昔の子どもが通う学校のような場所)が開かれていました。江戸時代、約400年くらい前に始まったそうで、大牟田で一番古い寺子屋と言われています。仏様がある場所を「本堂」、なくなった方の骨が納められているところを「納骨堂」といいます。お寺の裏のほうにはいくつかの納骨堂がありました。納骨堂の近くには大きな桜の木や柑橘類(かんきつるい)の実っている木もあり、子どもたちは身近に感じた様子でした。お寺の周りは、近所の人たちが力を合わせて、草刈りをしたりして、きれいであるように努力されているそうです。本堂の中が見学できなくて残念でした。
(7)金の観音様
明治時代の終わり頃(約100年くらい前)、諏訪川に洪水が起こった後、日の出橋(昔の日の出橋は木でできていました)に金の観音様が引っかかっていたそうです。馬込町の人たちは、持ち主を探しましたが、わかりませんでした。そこで、京都で金箔(きんぱく)を塗り直して、観音様のおうちを建てました。それからずっと大切にしているそうです。そのころに、このあたりで伝染病が大流行しましたが、観音様をお世話していた人や近くで遊ぶ子どもたちは、不思議と病気にならなかったそうです。