普光寺仁王像(ふこうじにおうぞう) [市指定有形文化財(彫刻)]
指定年月日:平成5(1993)年3月10日
所 在 地:大牟田市大字今山2538番地(普光寺境内)
構 造:寄木造り(よせぎづくり) 頭部ー檜材(ひのきざい)、躰部ー樟材(くすざい)
年 代:文明5(1473)年
普光寺仁王像 阿形
普光寺仁王像 吽形
仁王とは
執金剛神(しゅこんごうしん)という神の化身とされる金剛力士は、阿吽の二形に分かれて寺院の山門の両脇に立つことの多い仏です。そのため、二体で一対であることから仁王または二王と俗称されるようになりました。仏教に害を及ぼすものを撃退する仁王は上半身裸で筋肉をみなぎらせ、一般的には阿形(あぎょう:口を開けている)が左(東)、吽形(うんぎょう:口を閉じている)が右(西)に配置されることが多いとされます。阿形は五十音の一番最初である「あ」(万物のはじまり)をあらわし、吽形は一番最後の「ん」(すべての終局)を示すとされ、仏教での真理への到達と罪悪の遮断を意味していると考えられています。
ココに注目!!
平成2(1990)年に修理が行われるまでは、本堂の中に安置されていたことや建造年代を示す資料がなかったこともあり、本文化財の評価はなかなか定まりませんでした。しかし昭和63(1988)年の現状調査に際して、阿形の頭部から文明5(1473)年の墨書銘が発見され、室町時代の作であることが判明しました。なお墨書銘からは中世において当地の領主であった三池氏の「源親澄」という人物が奉納したとされ、像の製作者は鎌倉時代の有名な仏師「運慶」から数えて九代目の弟子である「康永」という人物であったことが分かります。なお頭部と躰部で材木の種類が違う理由に関しては、当初は全体があったものの何らかの事故で首から下が欠損し、現在の躰部はこの地で別の仏師が制作したと推定されます。
なお吽形に関しては、建造から江戸時代の修理までに火災に遭い頭部を残して消失し、後にその部分を修復して現在に至ります。
当時の畿内で制作された作品は九州に多くはなく、畿内慶派の棟梁へ仏像を発注するルートを三池氏が持っていた事実や、三池氏の系統を考える上で非常に重要な文化財であり、平成5(1993)年に市の指定文化財に指定されました。
なお、平成2(1990)年の修理に際して、躰内からは江戸時代の修理銘を記した木札も発見され、貴重な資料となっています。
参考文献:山田元樹2019「(2)普光寺仁王像胎内銘」『新大牟田市史ーテーマ別特講編』p244 大牟田市史編纂委員会
瓜生中1998『仏像がよくわかる本』PHP文庫